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経歴:
1960年4月13日茅ヶ崎生まれ
茅ヶ崎市立梅田小学校 梅田中学校
神奈川県立茅ヶ崎北陵高校卒業後
1985年3月 日本歯科大学歯学部歯学科卒業
1985年 歯科医師国家試験合格
横浜山下町のF歯科診療所勤務を経て1987年10月14日開業
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誕生
1960年(昭和35年)4月13日、極々平凡な地方公務員の長男として誕生した。
幼少時代
その後、誕生した妹を入れて、7人家族。
女系の家系に久々に誕生した男の子ということで、甘やかされて育ったせいで、とてもわがままだったそうである。
ある日、内科健診に連れて行き服を脱がそうとしても、絶対に脱がなかった。仕方なく無理やり脱がされたが、その仕打ちに腹をたて、号泣して今度は一切服を着ようとしなかった。
見かねた女性が「ボク、これをあげるから泣き止んで!」と林檎を手渡すと、いきなり遠くに投げてしまったそうだ。」それからは、母に代わって祖母が面倒をみるようになったという噂がある。
小学校時代
まず、身体が弱かった。というよりも心が弱かった。自家中毒という病気に頻繁に陥り、嘔吐と下痢を繰り返した。その都度、両足のふとももにとても太い針を刺し、リンゲル液というブドウ糖を注射した。帰りはふとももが2倍に膨れ上がり自力で歩くことはできなかった。
また、人前で話しをすることはもちろん、出ることも苦手だったので、学級委員に任命されると、学級会のある月曜日になると、激しい下痢に襲われ、学校を休んだ。現在では心因性ということで説明できるが、当時は仮病と思われていた。
いわゆる消極的という言葉がとても似合う子供だったが、小学校5年の時に転機が訪れる。
担任のA井先生との出会いである。「自分への手紙」という内容で自分のなかにあるひとには知られたくない欠点を書き出し、皆の前で音読させた。
その一方で、私が器械体操の才能があると見抜き、体育の時間は皆の前に強引に引っ張り出し、模範演技をさせ、褒めた。記憶のなかでは、自分に生きていく自信を与えた最初の方ではなかったかと思う。
かなりのスパルタ教育を課し、PTAでは問題教師として有名だったが、自分に人生を渡る大きな力を与えてくれた。大変感謝している。
中学校時代
とにかくよく歯医者に通った。母は自分が歯が悪かったから、そんな思いはさせたくなかったのだろう、試験勉強も待合室で行った記憶がある。
予約制ではないから、学校から帰るとすぐに行き、ひたすら待った。途中で夕飯を食べに近くの食堂に行ったこともある。
その当時は予防など考えず、早期発見早期治療の時代だったから、原因を考えず通えば通うだけ歯を削る。そして削れば削るほど悪くなっていったのである。しかし、ここでの体験から「歯医者って面白そうだな!」と興味を抱くことになる。
高校時代
楽しい記憶がない。何かに打ち込んだという充実感もない。ただ、人生の通り道という感じである。もう一度やり直せるものであれば、スポーツに勉強にそして遊びにもっと熱くなりたい。
3年になる時、受験する科目別のクラス編成となるため、嫌でも自分の進路を考えなければならなくなった。「歯医者」「考古学者」に興味があったが、「歯医者」は自分の成績では高嶺の花、知り合いや親戚で医者や歯医者もなく、平凡な公務員である自分の家庭を考えると、あきらめたほうがいいと文科系の希望を出そうとした。
ある晩、父が私の部屋に来て「おまえが歯医者を目指すならバックアップするぞ。金のことは気にするな。俺に返そうなんて考えずに、将来息子に返せ!」と言った。方向は決まった。
受験のはなし
そうは言っても、成績が伸びない。大体、通常の高校3年の勉強の他に、「受験勉強」なんて無理に決まっている。しかも、よりによって共通1次テストやらの初年度。現役合格は諦めなければなるまい。
この際2年計画を立てることにする。初めの1年目は数学と物理、化学を徹底的に仕上げよう。浪人1年目で英語、国語、社会などを仕上げる。来年が勝負だ。だから共通1次どころか他の私立も受けるのはやめよう。
担任に告げると猛反対。とにかく受験しないとだめだという。
仕方なく、新聞や赤本を頼りに私立4校に願書を出した。
2月1日、最初に受験したのが、日本歯科大学。というよりもその後、猛烈な風邪をひき他は受験できず、1校だけとなってしまった。
試験当日、夕食を家族で囲んでいると、当然試験はどうだったという会話になる。国語で「いろはを全て書け」という問題ができなかったというと、曾祖母は「おまえはそんだけ勉強していても『いろは』も分からないのか!」とため息をつき、面接の日の夕食では受験した動機の質問に「頭が悪いから国立は無理だと思った。」と答えたと話をすると父は頭を抱えた。
歯科大合格
しかし、運命というものは自分の実力とは別の流れがどうやらあるらしい。
発表当日、発表を見に行かず、高熱があり合格を諦めていた私は、ふとんのなかで、これから行われる他校の受験に備えていた。
日曜の午後、いつものようにNHKのど自慢を見終わった父は「俺ひまだから、ちょっと見てくるよ。」と言って、出掛けていった。諦めてはいたものの、母の「もう着いている時間なのに・・・」という言葉が気になって仕方ない。しびれをきらした時、父から電話。
「合格発表なんてやってないし、中核派なんてヘルメット被っているぞ。」飯田橋駅で下車したが方向を間違えてH大学に行っていたのだ。こんな父の息子じゃ合格できるわけない。発表が終了する5時ぎりぎりで再び電話。
「おい、合格してるぞ。墨で氏名書いてあるから間違いない。手続きして帰る。」
運命って本当に面白い。
大学時代
1年から3年までの3年間は、茅ヶ崎の自宅から飯田橋の大学まで約1時間半かけて通学した。 行き帰りに大好きな本を読めるのでとても充実した時間だったが、時々寝過ごしてしまった。
先輩に飲みに連れていってもらったのが、きっかけでサッカー部に所属したが、練習後にはいつも飲みに行った。
後輩は先輩にご馳走になるのが伝統だが、好きな食べ物は注文できず、さしみが入っていた器にいろいろなつまみを入れ、ビールや日本酒を混ぜ「トロピカルドリンク」と称するわけの分からないものを飲むか、芸をやって盛り上げなければならない。
ある日、連日の宿題で疲労していた私は終電ひとつ手前の大垣行きという魔の電車で寝入ってしまった。
今は「ムーンライトながら」とか言って、普通乗車券では乗れないと思うが、昔は2つドアで朝岐阜の大垣に着くという恐怖の電車があったのである。
座っていた4人がけの席で目を覚ますと、乗車した時とうってかわって、周囲は旅行ムードいっぱいとなっている。
トランプに興じるグループあり、するめを肴に酒を酌み交わすグループなど・・・
夢を見ているのだろうと再び目を閉じるも、どうやら現実らしい。
腕時計を見る。なんでこんな時間に電車が走っているのだろう。そして一体ここは何処?冷静になれ、冷静になれ。まず、どうしたらいいのだ。そうだ早く降りないといけない。どんどん遠くに行ってしまう。
次の停車駅で平静を取り繕って降りたら「三島」だった。
タクシーの運転手さんに乗り越したので茅ヶ崎までと頼むと大笑い。「たまにいるけど学生さんじゃめずらしいねえ。」
気持ちよく寝ていたのに、「お客さん、お客さん!」って起こして「左が芦ノ湖ですよ。」って・・・観光じゃないんだって!
しかも、夜でよく見えないし・・・先輩で浜松までというツワモノはいるけど、「三島」はいまだに自分ベスト。
膝の故障で残念ながら、途中で退部したけど、とても良い先輩や仲間と知り合えた。
サッカーだけでなく、テニスをしたり、スキーをしたり、皆で飲みに行ったりと、まさに学生生活をエンジョイしてた。
さすがに、他の学部の大学と比べるといろいろな実習があったり、宿題があったり、1科目でも落とすと進級できない分、同級生の絆も深かった。
みんな育ちがいいせいかギスギスするところもなく、目標が同じ歯科医師になるということもあり、皆で卒業し、国家試験に合格しようなんて一致団結していた。
就職
先輩の紹介で、横浜山下公園のまん前にあるF歯科診療所に就職する。
歯科医師だけでも20人近くいる大変大きな診療所です。
歯科衛生士さんは30人以上、技工士や受付、事務まで含めると80から100人近くまで職員がいるのである。
多くの方からいろいろと知識や技術を学び自分を高めたいと確か挨拶したと記憶しているが、本当は窓から横浜港が一望できるロケーションの良さと、衛生士さんを中心とする女性スタッフに美しい人がたくさんいたことである。公務員の家庭で育った身としては、こんな素敵なところなら一生いてもいいかも・・・なんて考えていた。
1日港を眺めて過ごしていたので、こんなもので給与いただけるなんて良い職業なんだろうと感じていたのも初めの1ヶ月ほど。良き先輩の指導により少し手が動くようになると、昼休みもまともにとれないハードな毎日となった。
しかし、大学出たてでまったく信頼もない自分にとって、ここの診療所と院長の信頼で来院される多くの患者さんを診させていただき、お陰で短期間である程度のレベルまで、それほど時間をかけずに診療できるようになった。
その頃の私は、あまりお金に執着がなく、仕事量と給与を比べることもせず、ただひたすら院長が自分に仕事をくれる信頼がうれしく、それをこなした後の衛生士さんたちが若造を認めてくれるような対応が心地よく、夕方になると今日は何処に飲みに行こうかと相談、診療終了後には衛生士さんたちを誘って美味しいお酒を飲みにいくことが楽しみだった。
退職
文句のつけようがない職場だったが、貪欲であった私はもっともっと上手くなりたい、もっといろいろな勉強をしたい、と考えるようになった。歯科雑誌の求人欄に掲載されている診療所に休日を利用して見学に行った。数件見学したが、勉強できるところは見当たらなかった。
一人の先輩が、「おまえ、お金をもらいながら勉強もしたいなんて贅沢だと思わないのか!勉強したいなら自分から金を出すもんだぞ。そんな都合のいいところないぜ。」「もちろん、開業して自分の稼いだお金で勉強する道もあるけど。」
初めて「開業」を意識した瞬間だった。
そこからはとんとん拍子。わずか2年と3ヶ月で退職し開業準備に入った。
地元茅ヶ崎で開業
のんびりと、自分の理想とする診療をしたかった。患者さんが来ないことや借金と売り上げで悩むこともしたくなかった。
だから、テナントのビル開業ではなく、生まれ育った場所で自分の診療所を建てることに決めた。
タイミング良く、主任クラスのふたりの衛生士さんが退職して就職先を探しているという。新規開業の手伝いを頼むとふたつ返事で承諾してくれた。鬼に金棒。また、妹がちょうどよく受付を引き受けてくれた。なんだか運が良いぞ!これで準備は整った。
昭和62年(1987年)10月14日 「山田歯科クリニック」誕生!
順調な滑り出し
受付1名、衛生士2名、診療台3台でスタートした。初日は17名の患者さんに来ていただけた。まさに順調な滑り出し。
その後もたくさんの患者さんに来ていただき、診療終了時間は午後8時を予定していたが、いつも10時過ぎまで仕事をしていた。
チームワークは最高で、皆が誰に言われなくても率先して自分の守備範囲以上の仕事を行い、最後はへとへとになりながらも、その後駅前の居酒屋でその日の反省会を行い労をねぎらう、そんな充実した日々が続いた。
こんなはずでは・・・
診療に自信がついたから開業できるわけではなかった。
院長には3つの仕事がある。
- 経営者
- マネージャー
- 歯科医師
である。@とAについては全く勉強せずに開業してしまったのである。保険診療の場合、月末に明細書を保険者ごとにまとめ、提出することにより、報酬を受け取る。しかし、明細書の書き方や報酬の請求の仕方も分からずに開業してしまったのである。
そして、極めつけは年末調整、決算そして確定申告と呼ばれる税金の計算である。経費の問題もあり、税理士に任せず、独学で税金の計算を学んだ。面白いわけなかった。上手く行くわけなかった。自分は税理士になりたいわけではなかった。税や保険請求の勉強がしたいわけではなかった。腕のいい歯科医師となり、ただ納得のいく診療をしたかっただけである。
開業してわずか3カ月で、やめたくなった。ひとに譲ることも真剣に考えた。
スタッフ、そして患者さんに支えられて
しかし、スタッフは私を信頼してくれて、しっかりと仕事をこなし、患者さんの信頼をつかんでいってくれた。表札ほどの看板だけであったが、ほとんど紹介患者や近所の方で埋まった。こんな私でも頼ってくれた。まさに、スタッフと患者さんにパワーをいただいた。
患者さんの望む治療とは
「早く、安く、うまく」 牛丼の○野家じゃないけど、安い保険内で、早く(場合によっては沢山の場所を一緒に)、保険内のものでも品質良く、を目指した。 そのためには腕を磨かないといけない。休診日である木曜、日曜日にはいつもセミナーに参加したり、他院を見学させていただいたりした。とにかく早く腕を挙げたかった。
息切れ、そして逃避
診療日は体力、気力が続くまで歯を削り、休みの日は朝から1日缶詰になり、セミナーを受講。いつも頭の中は歯科のことばかり、こんな状態がそう長く続けられるはずもなく、まもなく歯科がとても嫌いになってきた。
自分は何のために生まれてきたのか?今自分は何をやっているのか?これから何処へ向かおうというのか?答えが出ぬまま、とにかく歯科が嫌になった。自分の中から熱さが消えた。エネルギーはエンプティーを指していた。
ダイビングとの出会い
そんな時、患者さんの持つ「ダイビング雑誌」が目にとまった。借りて中を覗くと今まで見たことも無い風景が写っていた。そして、彼女の目はきらきらとしていた。
次の休日にはもう彼女の紹介のダイビングショップに行き、ライセンスを採るセミナーを受講していた。
それからは、休日はダイビング三昧となった。潜っていると、仕事のこと、患者さんのこと、歯科のことを忘れることができた。次の休日が楽しみになった。不思議なことに、仕事まで楽しくなった。
大事な人との出会い
テニスで素敵な女性と知り合った。ダブルスのペアを組んだが、非常に冷静に「あっ、この女性と結婚するんだな。」と直感が働いた。自分のアプローチに彼女がまいり、人生のペアを組むことになる。
原因不明のめまい
順風満帆と言いたいところだが、ある日強烈なめまいに襲われる。
ベットから起きられず、自分が今起きているのか横になっているのかも分からない状態で、いろいろと調べていただいたが原因不明だった。
ある医院で「お血(オケツ)」と診断された。血液がどろどろと滞っているというのだ。漢方薬と食事療法が始まった。肉、油、調味料が禁止された。妻が愛情込めて作ってくれた弁当も味がなく、正直なところ美味しくなかった。
これが功を奏したのかどうか分からないが、症状は徐々に消えていった。しかし、エネルギーが無くなったようで、燃えてこないのである。でも、もっとショックだったのは、歯科医師でありながら、不勉強で中医学どころか自分の体の状態ですら分からず、診断した医師に何も専門的な質問ができなかったことだ。
病気を治そう、患者を救おうと「歯科医師」になったんじゃなかったのか?
患者を治すどころか、自分の体調不良ですら原因も分からず、治せないなんて、患者さんを診る資格はない。
治せないのに、患者さんを診療し、報酬をいただくなんて詐欺師だ。場合によっては、自分が診療することによってもっと悪くなる方が現れても不思議ではない。それでいいのか?
体の奥底からふつふつと
「おまえはもっと勉強しなければならない!」まさにそれに気づくためにあった「めまい」だった。
目が覚めた。自分の目指す歯科医師は、
「口腔に現れた現象からその方の身体的精神的なアンバランスを診断し、口だけでなく、全身も健康になっていただくことにより、多くの方がイキイキわくわくとした人生を送っていただくことに少しでも力になれる歯科医師」
と目標設定し、勉強がスタートした。
なぜ、再発するんだろう?
歯科の場合、その治療法は病気の原因を取り除く「原因療法」ではなく、痛む歯を抜いたり神経を取ったり、穴を埋めたりする「対症療法」という治療法だ。
歯の痛みは結石、通風と並んで3大疼痛と呼ばれるほど強いものだ。神経を取ったり、歯を抜くことにより、確かに激しい痛みから解放される。
第1段階としては、当然行わなければならない治療だ。ただその後、原因を除去することなく、結果として生じたムシ歯の穴や歯の欠損に対して詰め物、被せもの、入れ歯を入れるだけで、歯を治したと勘違いしているのではないか?
対症治療の中で、偶然原因まで取り除けてしまえば、再発しないかもしれない。
しかし、原因が残る場合は、症状の変化や疾患の違いはあるものの、必ず以前よりも短期間に、重症となって現れる。
ムシ歯を削って詰めても、歯ブラシをいくら頑張っても、またムシ歯になるのは、家系とか栄養とかではなく、まだ原因が残っているからだ。
学べば学ぶほど全身との関係が明らかに
歯科疾患を真剣に治そう!根本的に治そう!再発を防ごう!予防しよう!とすると、必ず全身のバランスとの関係が浮き上がってくる。
整体、操体法、構造医学、カイロプラスティックス、オステオパシー、クラニオセイクラルセラピー、ソマトエモーショナルセラピー、鍼灸、中医学、気功、Oリング、アプライドキネシオロジー、バイオレゾナンスセラピー、クオンタムゼイロイド、AMI、ダウジング、ホメオパシー、バッチフラワーレメディー、アロマテラピー
などの一見歯科と関係が無さそうなものから
口腔内科学、BBO(バイオバランスドオクルージョン)、JSC療法、藤井式Oリング、オーソトロピクス、全身咬合、リーの咬合理論、姿勢咬合などの歯科セミナー、幕内秀夫先生の食事指導、新谷弘実先生、安保徹先生、島田彰男先生などの書物を通して勉強してきた。
歯が良い人が健康なのか?健康な人は歯が良いのか?は議論が分かれるところだが、どうやら深い関係があるようだ。
未病のうちなら治すことは簡単
一体、いつから、病気と診断されるのでしょうか?
歯科医師が肉眼で診査して、歯に穴が空いていれば、またレントゲンで影が見えればムシ歯なのでしょうか?
では、肉眼で確認できなければ健康で、異常はない。それが、1カ月後にレントゲンを撮ってみるとムシ歯である。1カ月で健康から病気に急になるのでしょうか?
全身(心身ともに)バランスがとれ、陰にも陽にも偏っていない状態を中医学では中庸という。
自覚症状も他覚症状もなく、まだ病気とは診断できないが、中庸から逸脱しバランスを失っている状態を未病という。
ヒトは生まれてながらにして必ずどちらかに偏っている。成長、生活していくなかで、姿勢や日々の習慣の影響は予想以上のものがある。このことに気づき、習慣を変えようとする方と、症状('痛いや上手く噛めないなど)には出ていないからこのままで習慣を変えようとしない方には大きな差がでる。
ムシ歯は歯の病気ではありません。だから、いくら歯を削っても治らないばかりか、どんどん悪くなるのだ。口腔という世界が中庸ではなく、バランスを失い、酸性に傾き過ぎているのです。傾きすぎていると体の中で一番硬い歯も溶けてしまうのだ。
歯はミネラル分が抜け徐々に柔らかくなり、やがて穴や影となって「ムシ歯」と診断される。こうなってからではもうどうすることもできない。
本来一番硬い歯の表面の組織が溶けてしまえば、鎧を脱がされた騎士と同じで、とても柔らかな歯の内部組織はあっという間に溶け、それまでは生きていけなかった細菌までもが増殖する住み家となる。
だから、削ってこの細菌感染した組織を除去するのだが、詰め物と歯の間にはいくら我々が隙間や段差を無くそうと思っても細菌レベルでは大変おおきな隙間があり、しかも原因が解決していないから、またすぐに再発してくるし、これを繰り返すうちに歯はなくなっていくのだ。
どうせ、ムシ歯は治らないと考えていないか?確かに穴が空いた歯が自然に元に戻ることはない。しかし、歯に穴があく前の状態、すなわち未病のうちにきちんとバランスをとり、適切な処置を行えば柔らかく溶けかかっていた歯はまた、ミネラル分を吸収し、硬くなるのである。
長くなるので、詳細は他のコーナーに譲るが、歯周病も顎関節症も未病のうちなら治すのは簡単である。
スタッフがいきいきワクワクする歯科医院を目指して
長い間、患者さんになるべくレベルの高い治療を提供したく、切磋琢磨してきた。
しかし、一度病気の穴に落ちてしまったヒトを救いあげることは考える以上に大変で、患者さんだけではなくスタッフにも仕事の精度やレベルを求めるために、よりきびしく接することになる。
誰でも誉められることは好きでも叱られたり否定されることは嫌いである。患者さんのために、指導することが、患者さんからは「叱られるから行くのが嫌になった。」とかスタッフからは「仕事がつらい。楽しくない。」とか言う理由で、定期的にメインテナンスに来ていただけないと、バランスを保っていることができない患者さんが中断してしまったり、せっかく腕が上がってきたスタッフが退職したりした。
どうしたら、患者さんが通いやすい歯科医院になるのか?
「楽しいから定期的に通っていたら、ムシ歯にならなくなった。歯肉が腫れなくなった。」という歯科医院になるためには、まずスタッフが私の命令とおり動くのではなく、我々の共通理念のもとに自分達で考え、いきいきワクワク仕事をすることによって、患者さんもまたいきいきワクワクし、満足をしていただくだけではなく感動までしてくれる。
そんなことが実現できたら、病気の人はいなくなり、未病の方が病気になる前にそのバランスを整えるために来院される。
当然、病気ではないのだから我々も患者さんとは呼ばないし、患者さんも我々を先生とは呼ばない。いつも、いたるところで笑い声が聞こえてくる、そんな空間を目指している。
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